こんにちは。ピイスケです。
続きです。
前回の記事↓
何百、何万、何億回と岩を運んでも罰が終わらないことを知りながら、シーシュポスが岩を運び続ける理由、それはシーシュポスが「岩を運ぶ」と決意しているから。
不可解なこの話を理解するためには、
シーシュポスの神話の著者、アルベール・カミュが説く「不条理」を理解した上で、不条理に対する対策を知る必要があります。
もくじ
↓前回の記事で言っている不条理とカミュの言う不条理は少し意味合いが違います。
カミュが言う不条理とは…
・真面目に生きていようがいまいが、疫病が発生し、戦争、自然災害、交通事故などが起こるこの冷淡な世界。
と
・人間が生きる意味を探し求めること。
→この二つを無理やりくっつけようとしたときに生まれる、対立や葛藤
=「カミュの言う不条理」
…
ちょっとわかりにくいですね。
例えば
・Aさんは多くの人を救うことを生きる意味にしている。
・Bさんは美味しいものをたくさん食べることを生きる意味にしている。
・Cさんはみんなを笑顔にすることを生きる意味にしている。
とします。
しかし、冷淡な世界はこれら3人の思惑を完全に無視して
・Aさんを病気にしたり
・Bさんを自然災害に巻き込んだり
・Cさんが戦争に行かなければならない状態にしたり
します。
この時に生まれる。
何で多くの人を救うことを生きる意味にしているAさんが病気になるんだ?
何でおいしいものをたくさん食べることを生きる意味にしているだけのBさんが、災害に巻き込まれなきゃならないんだ?
何でみんなを笑顔にすることを生きる意味にしているCさんが、戦争に行かなければならないんだ?
それらの葛藤や対立をカミュは不条理と呼んだのです。
多くの人々は「人間が生きることには意味がある」という前提で生きているのですが。
カミュはそう考えていません。
「私たちの人生には意味はない。」
「世界に意味を見いだそうとする人間の努力は最終的に失敗せざるをえない」
それが、カミュの考えです。
カミュに言わせれば
「私たちは不条理だらけの意味のない世界に生きていて、その上、人生に意味はない。」のです。
「私たちは不条理だらけの意味のない世界に生きていて、その上、人生に意味はない。」
…ネガティブすぎるだろ!!
という気持ちもあると思います。
不条理に対する3つの対策を見てみましょう。
生きる意味がないのなら…死んでしまったらいい。
という考え。
結局ネガティブ!?
と思われるかもしれませんが安心してください。
カミュは、
「世界や人生に意味がないように、死にも意味がない。」
と言って、自殺は役に立たないと説いています。
よかった~。
「自分の力が及ばないのであれば、神や宗教に救いを求めたらいい。」
という考え。
「この苦難は神が与えたもので意味があるものだ!!」…と、考えれば確かに不条理を納得することができるかもしれません。
しかしカミュは
信仰は「なぜ人間は生きるのか」という問いに対して考えることを放棄しているに過ぎないと説き(哲学的自殺)、この方法も否定しています。
反抗とは…不条理に立ち向かって生きる。
という事です。
カミュはこの3番を選びました。
この世の中には病気や、事故や、不平等、戦争や、理不尽な競争がある。
それを受け入れ、反発して生きる。大変な選択です。
1番が不条理から逃げる事、
2番が不条理に意味があると考えて(盲信して?)生きる事
3番は不条理があると知り、立ち向かう事。
という感じでしょうか。
では、シーシュポスの話に戻ります。
何百、何万、何億回と岩を山の頂上に運んでも、岩は転げ落ちてしまいます。
しかし、シーシュポスは岩を運び続けます。
何故か?もうお判りでしょう。
そう。これは不条理な世界に対する、シーシュポスの反抗なのです。
かみがみのプロレタリアート(労働者)であるシーシュポスは、無力でしかも反抗するシーシュポスは、自分の悲劇的な在り方をすみずみまで知っている。まさにこの悲惨な在り方を、かれは下山のあいだ中考えているのだ。かれを苦しめたにちがいない明徹な視力が、同時に、かれの勝利を完璧なものたらしめる。侮蔑によって乗り超えられぬ運命はないのである。
アルベール・カミュ シーシュポスの神話より
終わらない、苦痛の大きい、無益な労働。
自分をあざ笑う神々。
無力な自分。
素晴らしかった過去。
未来への不安。
シーシュポスの心をバキバキにする材料は死ぬほどあります。
そしてシーシュポスは明徹な視力でそれらをはっきりと自覚しています。
逆に、シーシュポスを励ますような材料はほとんどありません。
しかし、だからこそこれだけの不条理に打ち勝っている、立ち向かえている自分自身を誇れるのです。
「自分の運命は自分のものだ」と胸を張って言えるのです。
ぼくはシーシュポスを山の麓にのこそう!ひとはいつも、繰り返し繰り返し、自分の重荷を見出す。しかしシーシュポスは、神々を否定し、岩を持ち上げるより高次の忠実さをひとに教える。かれもまた、すべてよし、と判断しているのだ。このとき以後もはや支配者をもたぬこの宇宙は、かれには不毛だともくだらないとも思えない。この石の上の結晶のひとつひとつが、それだけで、ひとつの世界をかたちづくる。頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに十分たりうるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。
アルベール・カミュ シーシュポスの神話より
無益で希望のない労働と悲惨な自身。それを自覚したうえで、岩を運び続ける。
「すべてよし」
そう判断したシーシュポスの心は満ち足りています。もはや、シーシュポスは幸福なのかもしれません。
本の一文にこうあります。
こんにちの労働者は、生活の毎日毎日を、同じ仕事に従事している。その運命はシーシュポスに劣らず無意味だ。
アルベール・カミュ シーシュポスの神話より
シーシュポス程悲惨ではないにせよ、実はシーシュポスと私たちは同じなのです。
私たちも不条理な世界の中で、日々、同じ労働を繰り返しています。
不条理が降りかかってきたときも、自分の意志のみをもって自分の人生を肯定していけるようシーシュポスを見習いたいですね。
↓続きです